さてセンターの調理場は、髪の毛などが空調によって飛ばないようにと、クーラーなしの37度(釜前40度)!
忌引き等により2名欠員だったそうですが、現センター長になってから始めた前日の作業打合せの効果は、効率的かつ注意深い作業と出来上がった給食に表れていました。
正直、ごはん以外は、ホント美味しかった!
278円(実費)では、ご飯(今日は委託事業者が立川から運んできた)までおいしくするのが無理なら、いっそのこと、ご飯だけは各教室で炊いたらどうですかね〜。
異常気象が続く中、新米を収穫する苦労を学び、驚きと感謝を共有しながらいただく…これこそが、瑞穂の国の学校給食でありESDだと思うのですが…。
(試食会についての詳細は星野なおこのHPでどうぞ。)
さて、多摩市の学校給食の始まりは…
昭和36年から、多摩市唯一の中学校である多摩中にだけ、お弁当(持参)の時間に牛乳が配られていたそうです。そして43年、現在の一小あたりに建てられた平屋の関戸給食センターが完成すると、1小、2小、3小、多摩中の4校へおかずが届けられるようになり、別便で、委託業者が牛乳とパンを各学校に直接届けるようになりました(4校分で1日3000食)。
(当時の給食費は小学校低学年900円、高学年、1000円、中学校と職員は1200円(1ヵ月)。ちなみに今は3,700円(小1)〜4,560円(中3)の6段階です。)
ところで、43年の給食開始に先立って行われた弁当の調査結果が、多摩町広報第7号では次のように報告されています。
1.生徒の弁当の内容
①ご飯とおかず 85%
②パンと牛乳 15%
③パンのみ 若干
2.おかずの大部分が卵焼き、漬物、梅干
3.共通な欠点
①栄養のバランスがとれていない
②野菜が少ない(特に種類が)
③お金をかけている割に、栄養に問題がある(おかず平均50円)
④動物性たんぱく質が不足
…そうは言っても、卵も漬物も梅干も自家製だったのでしょうから、今では贅沢な「国産、無添加」のお弁当ですね。たいていは麦が入っていた(生粋の多摩っ子!現議会事務局長談)というから、ヘルシーでもあるし。
この後に始まるニュータウン入居に伴っては、保護者による自校方式への運動が盛んになり、南永山小の母親たちから発生した給食対策会は多い時には460人にまで拡がったとか。
こうした人々の学習会や請願が、議員たちの視察調査や議論につながり、多摩市の給食を向上させてきたんだなぁ…。
そんなことを思いながら強化磁器で食べた給食は、きちんとひいただし、野菜の色や食感など、見た目地味ながらも高いクオリティーであり、市民、議会、行政、現場が一緒に育んできた多摩市学校給食のDNAを、途絶えさせてはいけないと改めて感じました。
懸案事項だった民間への調理委託が、9月議会には「財団」と具体的になって出てくるとか。多摩ネットでも、改めて「財団」の議論が始まります。
さてと、ここまで読んで下さった方は、せっかくだから給食つながりでぜひこちらも!終戦直後の給食は、校長も教師も保護者も、みんなが汗かいて作っていたんですね。社会全体が子どもたちに希望を託していたんだなぁ。